TBS朝の情報番組「THE TIME,」などで活躍する、フリーアナウンサーの原千晶さん。
キラキラした世界にいる彼女ですが、実は大学入学までに6年もの浪人生活を経験し、数えきれない挫折を味わってきた「苦労人」なのです。
この記事では、原千晶さんは「なぜ6浪?」「なぜアナウンサーに?」「愛される魅力」などの疑問について深掘りしていきます。
原千晶プロフィール
- 名前: 原千晶(はら ちあき)
- 生年月日: 1988年12月18日(2026年時点37歳)
- 出身地: 福岡県
- 家族構成: 父開業医、母歯科医、弟2歳年下
- 職業: フリーアナウンサー(セント・フォース所属)
- 学歴: 福岡大学理学部応用数学科卒業
- 趣味: スポーツ観戦、旅行、食べ歩き
原千晶アナが医学部を目指したきっかけと「普通の高校生」だった過去
今でこそ知的なリポートをこなす原千晶アナですが、高校時代は意外にも「将来の夢がない普通の女子高生」だったそうです。
医療一家に育つも、進路は白紙だった
原さんのご実家は、お父様が開業医、お母様が歯科医という医療一家です。
しかし、ご両親から「医者になりなさい」と強制されたことは一度もなかったといいます。
高校時代は部活にも入らず、友達とカラオケに行ったりおしゃべりを楽しんだりする、どこにでもいる女子高生でした。
「高校受験をして私立の女子校に通っていたのですが、部活も入っていなかったし、何か特別に打ち込んでいるものがあったわけではありません。
ただ友達とおしゃべりしたり、時にはカラオケに行ったり、そんなごく普通の生活がすごく楽しくて正直、その頃は将来の夢も、なりたいものもありませんでした」
引用元:AERA
「将来なりたいものがない」という悩み、誰しも一度は経験があるのではないでしょうか。
尊敬する父の背中を見て決意した医学部への道
転機が訪れたのは高校3年生の秋、友人の兄が4浪の末に医学部に合格した話を聞き、『医師になる』という考えが急に降りてきたそうです。
原さんの脳裏に浮かんだのは、夜中でも患者さんのために駆けつけるお父様の姿でした。
「お金儲けより患者さんのために」働く父を尊敬していた彼女は、そこから無謀とも言える医学部受験への挑戦を決意したのです。
現役では無理だとわかっていたので、記念受験的に医学部を一校だけ受け、その年は終わりました。
想像を絶する「6浪生活」!社会から隔離された日々と孤独
「浪人」と聞くと1年か2年を想像しますが、原さんの場合は6年、20代前半の最も華やかな時期を、彼女はひたすら勉強に捧げました。
携帯・テレビなし!ストイックすぎる寮生活
原千晶アナの浪人生活は壮絶でした。
最初の1〜2年目と最後の6年目は、予備校の寮に入寮、そこはまるで社会から隔離された世界でした。
- 携帯電話禁止
- テレビなし
- 友人との連絡手段は文通か公衆電話
家族、友人と連絡を取るために、皆公衆電話に並んで電話していたそうです。

連絡手段は文通か公衆電話って、まるで昭和!
現代の若者にとって、スマホがない生活なんて想像できますか?
日曜日のランチだけが唯一の楽しみという環境で、医師を目指す仲間たちと切磋琢磨する日々でした。
しかし、仲間たちが一人、また一人と合格して寮を去っていく中、原さんは取り残されていきます。
「5浪目」に襲われた最大のメンタルクライシス
6年間の中で最も辛かったのが「5浪目」だったと原さんは語ります。
同級生たちは大学を卒業し社会人になり、中には結婚する友人も出てくる時期。
「周りはどんどん人生のステージを進めているのに、自分だけ時が止まっている」。
自分だけが何者でもないという焦燥感「多浪ズ」と自虐的に呼び合う仲間たちとの絆に支えられながらも、精神的には限界ギリギリの戦いでした。
1、2浪目はその寮で過ごし、3回目の受験に失敗後は実家に戻りました。
夢破れて見つけた「原千晶アナだけの強み」
原千晶さんは3浪、4浪、5浪の3年間は実家で浪人生活を続けました。
「高校の担任の先生には毎年調査書をもらいにいくので、『もう他のところも受けようよ』と毎年すごい言われていましたね」
引用元:AERA

原さん根性があります(ちょっと頑固?)
6回目の受験、原さんは「これが最後」と決め、京都の予備校で再び寮生活。
周りの子に『え!昭和生まれなの!?』と驚かれたそうです。
最終的には医学部と福岡大理学部を受け、医学部不合格、福岡大学理学部への進学を決めました。
「6回の挑戦は恵まれている」父の言葉で前へ
医学部に行けなかった自分を責め、大学1年生の頃はモヤモヤしていたという原さん。
そんな彼女を救ったのは、やはり尊敬する父親の言葉でした。
「浪人したくてもできない人がいる中で、やりたいことに6回も挑戦できたのはすごく恵まれていることだ。それは苦労とは言えないよ」
この言葉で、原さんは「6年間の時間は無駄じゃなかった」と吹っ切ることができたそうです。
家族や友人への感謝の気持ち、そして「挑戦させてもらえたことへの感謝」が、彼女の人間としての土台を作りました。
「ふく娘」と「宝くじの女神」で気づいた天職
大学入学後、原さんは地元の神社の「ふく娘」に母親から勧められて応募し、合格します。
そこで出会った人々に「あなたの笑顔で元気になった」と言われたことで、彼女は気づきます。
さらに大学3年の時に「宝くじ幸運の女神」のオーディションに応募、こちらも高倍率を突破して選ばれました。

原さん運がついてきました。
「人の命を救うことはできなくても、人の心を元気にすることはできる」
原千晶はそこからアナウンサーという仕事を意識し始めました。
医学部という夢は叶いませんでしたが、彼女は別の形で「人を助ける」道を見つけたのです。
遅咲きのデビュー!原千晶アナの「愛される魅力」とは?
28歳での就職活動、アナウンサー試験では年齢制限の壁にもぶつかりました。
「実際に受けようと思うと、アナウンサーって年齢制限があるところも結構多いんです。当時私が調べた限りでは、3社が30歳以下となっていたのでその3社を受けました」
引用元:AERA
それでもテレビ山口のアナウンサーとして採用されたのは、彼女の飾らない人柄と、圧倒的な「雑草魂」があったからでしょう。
失敗しても立ち上がる「七転び八起き」の精神
原千晶アナの愛される魅力は、自分の弱さを隠さないところにあります。
「私、ポンコツなので仕事でも失敗は多くて。言葉をかんだり、言ってはいけない言葉を言ってしまったり。
ただ失敗は人並み以上に経験しているわけじゃないですか。大学受験はリアル七転び八起きでしたし。
失敗したときはその都度落ち込むのですが、それを糧にして、その次にどう動くかを考えるそれを浪人時代に繰り返せたことが今、仕事ですごく生きています」
引用元:AERA
原さんの浪人時代の経験が生きていますね、無駄な6年間ではありませんでした。
- 仕事で失敗して落ち込むことがあっても、浪人時代に培った「失敗からどう動くか」を考える力がある。
- 「私、ポンコツなので(笑)」と明るく笑い飛ばせる強さ。
- エリート街道を歩んできたわけではないからこそ、挫折を知っている人の痛みがわかる。
この「人間味」こそが、視聴者の共感を呼んでいるのです。
「6浪がなければ今の私はない」と言える強さ
現在、フリーアナウンサーとして東京で新たな挑戦を続けている原さん「今の仕事が大好き」と語る彼女は、こう断言します。
「6浪がなければ、絶対にこの仕事を選んでいなかった。私の人生には必要な6年でした」
- 遠回りをしたからこそ見える景色がある。
- 遅咲きだからこそ、咲いた花の根は深い
原千晶アナの言葉には、今何かにつまずいている女性たちを勇気づけるパワーがあります。
まとめ
原千晶アナウンサーの「6浪」という経歴は、単なる話題作りではありませんでした。
それは、彼女の深い人間力と、人の心に寄り添う優しさを育んだ大切な時間だったのです。
- 普通の女子高生から、壮絶な受験生活への挑戦
- 社会から取り残される孤独と焦りを知っている
- 夢破れても、新しい場所で「人を元気にする」天職を見つけた
- 「失敗は糧になる」という実体験に基づいたポジティブさ
「笑う門には福来る」。彼女の笑顔の裏には、涙を流した数だけの強さがあります。
完璧じゃないからこそ応援したくなる、原千晶アナウンサーのこれからの活躍に、ますます目が離せませんね!
